昨日(22日)は、二松学舎でのお仕事の後、九段下の中華屋さんで懇親会兼忘年会に参加してきました!
紹興酒~、イェ~~~イ///
北京ダックやフカヒレも、たんまりいただきました! メンバーの皆さんも、ハードだった1年がまずまず終わって、ホッとした表情でしたね。お疲れ様でした!
そして、本日、ついに「SW EP9 スカイウォーカーの夜明け」を観てきました! 明日はまた横浜でお仕事なので、もう今日観に行かないとと思って。
昼の回だったのですが、1,100円で観れた。この実家の近くの映画館は、ときたま1,100円で観れるんだよねえ。お土産も買えた♪
ハレーション起こしちゃってるけど、クリアファイルのセットAと、ステッカーセットBです。特にステッカーは、オビのアップが3枚も///
パダオビとナイトオビ、そしてベン・ケノービ!!!(歓喜)
いやあ、オビだけ3バージョンもあって贅沢やなあ♪ 嬉しいぞな♪ 欲を言えば、クワイガンも欲しかった。ま、クリアファイルの方ででっかいクワイが見れるからいいんだけど。
んで、早速、感想をば――。ネタバレしますので、ご注意ください。
まあ、今作はレイがジェダイとして一生懸命がんばっているシーンが多かったので、EP7よりは個人的に楽しめたかとは思ってます♪ 駄菓子菓子、
率直に言って、つまり私は続三部作には、まあほとんど思い入れはないな、と言う結論ですね、ハイ。
オビ=ワンのオの字も出なかったvv パル爺にいったん倒されたレイが復活する際に、歴代のジェダイの声がいろいろ聞こえるシーンはありましたが、それだけ。
レイがパル爺の孫となったので(これもなんだか取って付けたような設定で、あんまり説得力なかったがな)、孫尽くしな続三部作。その割には、新三部作の登場人物への言及はゼロに近いのが、なんともなあ。レイがパル爺の孫というなら、パル爺が壮年時代だった新三部作への言及がもっとあってしかるべきなんじゃないのかなあ?
私が続三部作に思い入れがもてないのは、このシリーズが新三部作の世界観への配慮を全く欠いている点にあるのかもしれない。
特にさあ、アナキン(ダース・ベイダーではなく)とオビ=ワンへの言及が皆無って、どういうことなのよ?(立腹)
いくら「オビ=ワンは声で出演」とか言ったって、まるきり無視されてるのと同じことじゃないの? ひたすら旧三部作へのオマージュで終わっているところに、むしろ理不尽で不自然なものを感じるのは私だけだろうか?
EP8は、それでもわずかながらに、新三部作や『クローン・ウォーズ』といった先行シリーズへの言及があったと見た。「助けてオビ=ワン・ケノービ」のホロを見せられて、ルークがかつての師オビと自分とを重ね合わせるシーンとか、巷では酷評のカジノのシーンやホルド提督の戦略等は『クローン・ウォーズ』の世界観に近しいとか。
でも、どうもJJ監督は、新三部作や『クローン・ウォーズ』は無視することに決めたっぽい? 就中、SW全シリーズ通して最重要人物のオビ=ワンをまるで顧みないのは、何故なんだろうね? 私がオビ=ワンのフリークだから、そう思っちゃうだけなのかなあ?
だけども、ベイダーへの執着は描きながらも、その前身であるアナキンへの言及はまるでない続三部作の世界観は、おかしいでしょ?
『ローグ・ワン』が素晴らしかったのは、新三部作と旧三部作、双方へのオマージュがかしこにちりばめられていたからでしょう? ベイル・オーガナの出演や、「ジェダイのお友達」といった言葉に、それが端的に表現されていたじゃない。
あとね、個人的な意見でしかないが、私はEP9まで見終わっても、やっぱり、カイロ・レンが結局何をやりたかったのか、1ミリも理解できないんです~vv この男、結局、何がしたかったわけ?? カイロ・レンが理想とする宇宙の支配って、どんなヴィジョンなのか、まるで伝わってこないんですが、私の理解力の問題なんですかね??
少なくとも、パル爺の場合は新三部作ではっきり描かれたように、人間中心(エイリアン排除)でジェダイ滅殺の一党独裁のヴィジョンがはっきり見えていた。アナキンにしても、愛する妻パドメを救い、恋愛を許さないジェダイの掟を打ち破って(それは奴隷という出自を持つ自分のコンプレックス克服でもあった)自由を確保し、「選ばれし者」という宿命から解き放たれるという目的があった。
でも、カイロ・レンはどういうヴィジョンを持って宇宙を統治しようと考えているのか、まったくわからん。正直、この男にはヴィジョンという考えがそもそもないんでないの、と思ってしまふ。。。
駄菓子菓子、旧三部作&新三部作と、今回の続三部作を比較するのが、そもそも無駄なのかもしれないね。旧三部作&新三部作は、ルーカスが最初から、それこそヴィジョンを持って一貫したストーリーの見通しのもとに制作したものだったから、整合性があり得たけれども、続三部作は監督も入れ替わるし、一貫性を求めたくてもできない制作過程だったのかも。
ルーカス制作の一貫したストーリーの基盤に存在した、スカイウォーカーの物語は反転するとケノービの物語になるという重要なドラマ構造が、続三部作では一顧だにされなかったあたりが、まことに残念至極なわけである。換言すれば、ジェダイという存在を、その生き様を、どう解釈するかという基本的にして原理的な問いが、続三部作では実に軽々しく扱われてしまったのだろうな。
この点、『ローグ・ワン』は、ジェダイという存在の意義について、チアルートというキャラを作って問う姿勢を見せたことによって、SWの世界にみごとに適合した作品になったのでありましょう。
結論――問題はフォースではない、フォースの使い手であるジェダイをどう描くのかが、SWの解釈の核なのだ。
アナキン・スカイウォーカーのあの悲劇性、オビ=ワン・ケノービのあの苦悩、シーヴ・パルパティーンのあの邪悪、そしてルーク・スカイウォーカーのあの希望も、ジェダイの生き様という問題抜きでは決して描き得ないものなのだから――と、個人的には考えますがねえ、どんなもんでしょ。