新新・たまんにっき

文学と洋画、アニメ、漫画に萌えるインテリア大好き乙女の気まぐれ日記

明智考察の続き☆

まだまだ続くよ、明智考察☆

ということで、昨日の続き。光秀の謀反の原因の一つと考えられている国替え問題ですが、あてにならない『明智軍記』(笑)の記述に見られる、「近江・丹波を召し上げて、出雲・石見への移封」の件。もしこれが本当だったと仮定してみても、この移封は左遷ではなく、むしろ先行研究が言うところの「信長の明国出征計画」のための戦略的配置だったのではないんか??

信長は明智の外交能力を高く買っていたわけでしょ。だから、中国大陸の明との交渉係にも明智がうってつけ、と思ったのでは? それで、古代から朝鮮半島を介して中国大陸と交流のあった出雲・石見地域を、明智にあてがおうと考えたのではないでしょうか?

しかも、昨日も言ったように、大阪城に織田信澄(明智の娘婿)を置くとすれば、大阪~石見~出雲というルートは、間に下関を介して、北前船のルートじゃないの? とすれば、北陸~北海道にまで至る交易ルートの要衝ということにもなるんでないの?

素人チャンの考えにすぎませんが、こんなふうに考えると、出雲・石見への国替えには、信長なりの明智評価があってこそだったような気がしないでもないよね。問題は、当年55歳(たぶん)になる明智にとって、それが重荷(過労)と思われてしまったのかもしれない、ということか?

それとですね、智恩寺につきましても、山崎合戦で敗北し、小栗栖だか醍醐だかで討たれた光秀の首を運ぶにあたって、坂本や京は危ないと考えたなら、丹波方面を抜けて宮津へ向かったとしても、そうおかしくはないと思われる。先行研究によると、細川藤孝の居城であった宮津城の縄張りは、明智光秀が行ったそうで。だとすれば、やはり、明智が自分の首を持って行けと命じた場所は、宮津智恩寺だったような気がするなあ。どうでしょうかなあ?

でもって、溝尾庄兵衛だか誰だかが、首を宮津まで運ぶ途中で力尽きたとして、その力尽きた場所が谷性寺付近だったのではないの? 山崎から宮津へ、丹波を抜けるルートの途上に谷性寺付近をもってこれないかねえ?

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なんてね、いろいろ調べたり考えたりしていると、面白いね♪ 体調はあいかわらずよくないんだけれども、メンタルも絶賛低空飛行中なんだけども、そんな浮世のことはどうでもいい。

本当は、福知山~宮津へと、一泊旅行に行きたいところなんですが、お仕事と心身不調とのダブルパンチ中ということなんで、あまり遠方へは行けないかも。仕方がないから、日帰りで京都にでも行って、東山の光秀首塚を見てこようかなあ。なんてねえ~♪