新新・たまんにっき

文学と洋画、アニメ、漫画に萌えるインテリア大好き乙女の気まぐれ日記

両口屋是清饅頭 & 「麒麟がくる」で〈運命の人〉考(笑)

さて、多忙が押してまいりましたぞ(日本語変)。

昨日は17:00~19:30までZOOMで委員会。本日は13:00~18:20までZOOMで研究会に参加。明日は、蟹江まで出張して講演。明後日は実家へ帰省。バタバタの週末です。やっぱり少し体調も悪い・・・と思ったら、今夕から明日にかけて名古屋は雨ですがな~。やれやれ。ま、マイペースでいきまっしょい☆

そうそう、一昨日は職場のセレモニーで、私は諸般の都合で今年は参加できませんでしたが、昨日出勤したら某ウィルスにもかかわらず記念のお饅頭が届けられてた♪

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両口屋是清の紅白饅頭///

これ、美味しいんだよね~。のみならず、巣立ちなさる教え子さん達からも、心の籠った贈り物をいただいて、感涙です/// 皆様の前途に幸いあれ!

昨夜はTVで「アガサ・クリスティーの世界」を観てました。特に目新しい情報はなかったが、流された映像が、デビッド・スーシェでなくてケネス・ブラナー版だったのは、ちょっとなあ。何回かココでも言いましたが、ケネス・ブラナーは役者としては素晴らしいけれど、ポアロとしてはミス・キャストなんだってば。

ホームズのキャスティングでも常々思うことなんだけども、原作から離れて脚色することは、それはメディアの違いだから、私はあまりやかましくは言わないタイプですが、でもやっぱり絶対外せない項目というのはあるんだけども、ということっすね。

まあ、しかし、「麒麟がくる」の染谷信長のように、みごとにそれまでの信長イメージを転覆させた例もあるからなあ。とはいえ、信長の場合は、その外見についてしっかりとした確証が史実として残されているわけではないからね。明智も然り。っつか、明智の場合は、秀吉周辺による歪曲が甚だしくてvvv

しかし、ちょっと史料を漁ってみると、明智の首を検分したと確言しているのは、秀吉が他武将に宛てた2通の書簡の文面のみ、なのか? とすれば、やはり相当怪しいわけだな?

物語は虚実の間を縫うものである。by近松門左衛門

虚実皮膜をもってすれば、明智十兵衛光秀の最期ほど、想像力を掻き立てるものはない。

ってか、日本人という民族は、生き様よりも死に様を尊び、その死に様の潔さ美しさで当該人物の価値を極めるという感性の文化を持っているから、明智がずっと謀叛人イメージを拭えなかった要因には、竹槍で名もなき百姓に突き殺されたという死に様の惨めさが強く働いているに違いない。

そうして、史料でもって、もしその惨めな死に様がそれほど確証でき得るものでもないとしたら、そうした惨めな最期を明智に与えた最大の犯人は、やはり秀吉ということになるわけで。だって、秀吉は自分で能を創作して、「明智討」という演目を大のお気に入りとして繰り返し演じさせたというじゃない? イメージ戦略の達人として、ライバル明智十兵衛光秀にかくも惨めな最期を押しつけた、その知恵は、秀吉自身から出たものか? それとも黒田官兵衛か?vv

なんにせよ、抜群の効果を後世に及ぼしたことに間違いはない。

おかげで、たとえ1910年代に明智再評価の機運が盛り上がったとはいえ、その死に様の見直し&改善まではいかなかった。生存説が盛り上がるのは、1920年代の一時期と、あとは1960年代あたりだもん(笑)。

家康は、秀吉のこうした明智サゲのイメージ戦略を、よくわかっていたのかもしれないね。だから、徳川の世になってから、さりげなく(?)明智へのリスペクトを様々な意匠に忍び込ませて、評価復活を主張したのかも。

うーん、生存ifだと、やっぱ家康×十兵衛は鉄板になるな~♪(喜悦)

「続・麒麟がくる」のサブタイトルは、「黒衣の宰相」で決まりだね(笑)。キーワードは「干し柿」です。

画像・写真 | 【麒麟がくる】竹千代役の岩田琉聖、イケメン幼少期 ...

綺麗なおにいさんは好きですか? ハイ、だあ~い好きです///

なんつってね~。信長よりも先に十兵衛に出会っていた家康。これこそまさに、運命の人との逢瀬か。駄菓子菓子、うーん、でもね、やっぱり「運命の人」という言葉にふさわしいのは、信長様と十兵衛なんだよなあ。結句、最後は家康の補佐となる十兵衛であっても、十兵衛の愛はやっぱり信長様のものであったと思いたい。たとえ主体的でなくとも、半ば信長様の強引な求愛だったとしても、それはそれで激しく萌えだし(笑)。

麒麟がくる:【悲報】信長、光秀にフラれる! 目だけでがっかり? 視聴 ...

長谷川十兵衛はね、どんなに麒麟オタクでも、そして信長が麒麟ではないと知った後でも、やっぱり信長様を潜在意識下で深く愛していたと、私はそう思う民なのですよ(滝涙)。

十兵衛は有意識下では義輝様を愛してると思ってるけど、深い深い潜在意識下では彼は信長様を愛してるんだよ!! どうやっても破滅にしか向かわない二人であってこその、運命の愛人同士なのですよ!! 何度転生して出あっても、殺し殺されるエンディングしか迎えられない、運命の愛人同士ですよ!!

どうしよう、激萌えで死んでしまふvvv

亀岡弾丸特急の旅

UPするのを忘れていましたが、「シン・エヴァンゲリオン」をミッドランドシネマで鑑賞した際、入場口で渡された記念品☆

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アスカだああああ///(雀躍)

たしか、以前「エヴァQ」を観に行った時は、マリのポストカード貰ったんだった。今回は念願のアスカが貰えてうれしい限り。完結編でアスカとは、因縁を感じるなあ。

さて、で、昨日は宣言どおり、光秀が丹波拝領して作った城下町・亀岡に弾丸特急いたしてきました☆ 実はその前の晩から、疲労が蓄積した感じでちょっと辛かった。んで、一夜明けてみたら、なんともはや8時を回っておりまして! ヤベエッ、寝過ごした!! 本当なら7時には起きて9時には出発するべきだったのに、やっぱり疲れていたのか、寝過ごしてしまい。。。どうするかなあと思案したのですが、せっかくの晴天でありますし、初志貫徹ということで、たらたらと身支度をして11時頃に出発したのでありました。遅いねえ。

京都まで新幹線、そこからJR嵯峨野線に乗り換えまして20分程。嵯峨野線、けっこう混んでた。座れたから良かったけども、これはオン・シーズンや土日祝日は凄く混むんだろうな。比叡山坂本に行った時に乗った湖西線は空いてたのにと思ったら、そうか、嵯峨野線は当たり前だけど、嵯峨嵐山保津峡など著名な観光地が路線にあるんだね。それでか。

しかし、保津峡を過ぎたあたりからは、もうガラガラ(笑)。亀岡駅に到着したのは13:00でした。

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余裕で散策できる時間帯。やっぱ名古屋から近いなあ♪ 城下町の散策より、まずは遠い場所にある谷性寺(光秀寺)に行こうと決めました。

駄菓子菓子、ここからとんでもない誤算が起きることに、その時の私は気づくはずもなかったのです!(哀)

駅南口に出まして、ロータリーからバスに乗ったのが13:26。事前に調べておいた時刻表と違っていて、ちょっと焦った。2021年3月12日から時間変更になったらしい。ここでちょっと嫌な予感がしたんだよねえ。ともかくも、バスは出発しまして、延々30分近い乗車です。谷性寺の最寄りの猪倉というバス停留所に着いたのが14:00。その頃にはバスの車内には私独り。。。

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のどかな田園風景ですが、人っ子ひとりいない。。。真昼間のまぶしい陽射しの下、少し心細くなった私を、紫桔梗紋の旗差しが元気づけてくれました。丹波の山並みに囲まれた、本当に隠れ里といった趣の風景です。

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バス停から谷性寺への道。なんだろう、昔ながらの家並みなのか、こんな田園風景の中にあって武家の匂いを感じさせる雰囲気でした。

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立派な蔵もあるおうち。しんとして、人気もなく、白昼夢を歩んでいる感覚でしたね。そうして、てくてく5分程歩いていくと、道の先にやっと見えてきました! 紫桔梗紋の旗差しが再び!

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谷性寺に到着。おお、ここか! なんと申しますか、すごく可憐なお寺です/// 小さい境内、でもとても綺麗に手入れされた樹木に囲まれて、品のよい瀟洒な雰囲気。

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山門前の石段に、大きな枝垂れ桜の木がありました。これは桜の季節はみごとでしょうな♪ 紫桔梗紋の旗とも、ぴったりマッチした雰囲気が素敵///

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境内に入る前に、由緒書をパチリ☆ 丹波を攻略してこの地の領主となった光秀は、谷性寺の不動明王を崇敬したらしい。その縁で、彼の敗北後、なぜか安政の時代に所縁の人物なのか、「栄」と名乗る者が供養塔(首塚)を建てたとか。別説では、小栗栖で光秀の介錯をした溝尾庄兵衛が、その首を谷性寺へ運ばせたとか。うーん、よくわからんなあ。なぜ安政二年なんだ?? その頃といえば、浦賀にペリーがやってきて、開国へ向けて世の中が動き出している動乱の時代。ちょっと調べてみたいですねえ。

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石段を登り終わって山門をくぐると、そこには桔梗紋が♪ なんか可愛いねえ~♪ その奥の赤い屋根の近代的な建物が本堂です。本堂自体にはあまり価値はないだろうが、全体につつましく、清潔で、上品な佇まい。

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本堂に向かって左手に、首塚があります。安政二年にこの首塚を手向けたという人物は、いったい何者だったのか? 想像が膨らみますね。

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城下の柳町というところにあった門を、このお寺に移築したというのが、この明智門です(↑)。 なぜ明智門と呼ばれていたのかは、よくわからない。傍に咲いていた木瓜の花が、まことに可憐で、このお寺の雰囲気とよく似あっていました。

本堂は無人で、入り口は締めきられ、その前に据え置きの料金箱があって、300円入れれば書置きの御朱印がもらえます。

人っ子一人いないお寺をゆっくり見て、そうしてそっと立ち去り、バス停に戻りましたのが14:20頃。バス停の時刻表を確認したら、

待て。15:31までバスが来ないだと!?(爆)

しまったあああ!! 厭な予感的中!! なんと、平日は13時台と14時台は亀岡駅行きのバスが無い!! ってことは、この何もない田園風景の中、私は1時間余り待ってなくちゃいけないのか。。。どうしたもんだべ。やべえ。誰もいない昼間の風景が、見知らぬ土地で途方に暮れる心細さを煽り立てますううう。ちょっと考えた結果、出した結論――しかたない、こうなったら歩くほかない!!

次の次のバス亭あたりまで、ひたすら歩いてみよう。こないだの坂本の時もそうだったけれど、実際に自分の足で歩いてみることで、その土地の起伏や風土や醸し出す過去の残留を感じ取れることがあるし。明智十兵衛が歩いたかもしれない土地を、自分の足で辿ってみましょう。

ということで、てくてく、まずは湯の花温泉のバス停を目指して歩いて行ったのでアリマス。どこまで行っても誰もいない田園風景の中をひたすら歩きながら、私が思ったことは、もし「麒麟がくる」のラストのように丹波の山奥で十兵衛さまが生きていたとするなら、この谷性寺の付近はその隠れ棲みにうってつけだな、ということ。

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麒麟~」ラストでは、市で駒が十兵衛らしき人影とすれ違うんだよね? あの市って、どこだっけ? 備後? それとも堺? 谷性寺付近からそこまで、なんとか行けるルートかしらん? 「丹波の山奥」というセリフから、福知山から丹波篠山付近までも範疇として考えられるが、福知山はちょっと開け過ぎてるし、危険な気がする。十兵衛が愛した坂本からも割合に近く、湯の湧く谷もあって、隠れ里のような亀岡奥地・谷性寺付近が明智の隠棲としては格好な舞台かもしれない、なんてね。

湯の花温泉バス亭でようやくバスに乗車でき、亀岡駅前に戻ったら、もう16:00を過ぎていた。やっぱ、今朝寝過ごしたのが痛かったな。9時に出発できてれば、谷性寺で時間をくうこともなかったろうに。

それでも急いで、亀山城址を目指します。駅から真っ直ぐ通りを抜ければ、すぐそこ。

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亀岡名物の朝霧を足下にまとった、なかなか優美な明智光秀像です☆ 背後は亀山城の堀ですね。

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本日は南側の城下町までは時間切れで行けなんだ。南郷公園だけぐるっと巡っておきました。また来るよ。現在、亀山城址は大本教本部の管理下なので、見学するには事前受付が必要です。

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堀端にあった、お化け榎☆ これ、夜に見たら、けっこう怖いシルエットだな。新興宗教の傍だし(笑)。それに、明智がこの亀山城から本能寺へ出陣したと思うとねえ。。。

そんなこんなで、亀岡弾丸特急の旅はこれにて終了。新幹線に飛び乗り、18:00には帰宅したのでありました。今回の戦利品は、御朱印のみ。

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先日の西教寺、滋賀院門跡と並べて、今回の谷性寺の御朱印を並べて貼りました。あと一枚の御朱印は、どこの光秀所縁のお寺のものにしよう? 福知山の御霊神社かなあ?

「当代記」における、信長の明智愛 & 「シン・エヴァンゲリオン劇場版:Ⅱ」観た(ネタバレ無し)

おおお、まことにもってあざとい商法でもって(笑)、麒麟ロスの民が踊らされておりまするなあ///

長谷川博己 キリン スプリングバレー CM ティザー篇 『キリン、渾身の ...

文字通り、麒麟がくる・・・ってか、麒麟がきた!!(爆笑)

3月23日ですか、ガッテン承知! 当日は奇しくも、当方が歌舞伎「時今也桔梗旗揚」を観劇する日でありますからして、ついでにこのビールも買ってきますわ♪ それにしても、サッポロ酎ハイからキリンビールへ華麗なる転身。さすがは鳥のごとく、男から男へ渡り歩いた十兵衛様でございます、なんつって///

ってなことで、昨日は仕事の合間にアーカイヴから「当代記」を借りてきましたよ。ついでに念のためフロイスの「日本史」も。

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これ(↑)がその「当代記」であります。で、明智に関する記述は、巻二に出てくる。その個所で重要だと思えるところを、クローズアップいたしますね。まずは年齢の箇所。↓

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山科で討たれた時、明智の年齢は六十七であったと書いてある箇所です。二か所、出てきております。先にも言ったとおり、私はこの年齢はちょっとなあと考える派でして、信長を討つという大事を決行するにあたっては、うーん、やっぱ55~57歳あたりが相当かなあと、素人考えを抱いてる。

が、「当代記」はこの67歳という年齢を補足するような記述を、先立つ箇所でも述べておりまして、それが下の画像に示した部分。↓

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甲州攻めの後、安土へ帰る旅程を述べた箇所で、次のように言っているんですわな。

何の於御泊も、惟任は老人成とて、御座所の軈而御近所に宿を被仰付、

(いかなる宿泊の時も、信長は「惟任(明智)は老人だから、ワシの傍へおれ」ということで、自身が泊まる場所のそのまま近くにいつも明智を宿泊させた。)

「当代記」は、この「惟任は老人成」という信長の言葉をもって、明智の年齢を67歳に比定しているみたい(?)ですが――ちょっと待って。本当にここにある「老人」は、今でいう「おじいちゃん」なのか? 古語での「老人」には、実は「政務に参与する重臣」という意味もあったりするんでなかったか? 素人考えですが、ここはむしろ、その重臣という意味に解釈してはどうだろうか? とすれば、やっぱ明智の年齢は55歳、或いは57歳ということでよいのでは? 私は子年という点から55歳を推すけれども。

それでね、こうして改めて「当代記」を読み返しても、やっぱり信長は光秀をとても愛していたということしか伝わってこないのよね。たとえば、最近の研究でも解明されているとおり、信長は京へ泊る用事がある際には、光秀の屋敷へ頻繁に泊っているんだよね。京以外でもそうだったという研究もある。「当代記」における「どんな時も光秀を傍に宿らせた」という記述は、このあたりの史実を投影している文章なのではないのか?

つまりですね、もし少しでも明智に謀反の気配があるとか、或いは性格の不一致などが常からあったりしたならば、いくら便利だからって、信長はこんな頻繁に光秀の許へ泊ったりしないでしょ、ということですうう。

やっぱり、信長は相当明智十兵衛を好いていたという推測しか、できんのだがvv

どうなんよ、そこんとこ(笑)。「麒麟がくる」的には、ものっそ美味しい史料解釈なんですがっ!!

それとね、フロイス「日本史」も再読してみれば、やっぱちょっと変だぜ? 例の、信長が光秀を足蹴にしたのは、「密室」での出来事だったという書き方がしてある。家康の饗応についての相談を、二人で密室で行っていた際の出来事と書いているが、なんだってそんな「密室」で語り合わなくちゃならなかったんだよ? 饗応の支度の相談なんだから、別にそんな密室で二人きりになる必要ないじゃん? フロイスは、「その時に、信長の好みに合わないことを光秀が言って、足蹴にされたのはそれが直接原因らしい」と伝聞を述べていますが、「信長の好みに合わない」って、何が?? 

いろいろ推測と妄想が沸き上がりますが(笑)、もしかしてこの「密室での足蹴」って、ただ二人がなんだか部屋に閉じこもっているなあと思ってたら、中から何やら怪しげな物音がしてきたぞとかいう、近習の者からの伝聞なんじゃ?? とすると、

もしかしてこれって、まさか、そんな、ええっ、どうしような腐女子解釈もOK?///

的な展開だったのでは? 「好みに合わない」って、「好みに合わないプレイ」ってことか!?vvv もし明智55歳説を取れば、信長と光秀は6歳差――史実かどうかはさておき、妄想の世界ではまったく問題にならない、むしろイケイケドンドンな絶妙な年齢差ですわな♪ もちろん下克上です///(←逝ね!)

一応断っておきますが、これはあくまで妄想でしかないので・・・とはいえ、うわああ、どうしましょ、奥さん?vv いやはや、ちょっと、史料解釈にしてからが、とんでもない沼の様相を示してきました、本能寺の変ミステリー/// さすがは古来より人々の関心を強く引きつけてきただけのことはある(笑)。

お次は、是非とも、「綿考輯録」を読んでみたい。細川家から見た明智十兵衛の魔性を是非確認したい!vv

さて、そんなこんなで、まだまだ「麒麟~」に狂っている今日この頃、明日はもし体調がよろしいようであれば、亀岡に弾丸旅行してこようかと考えております☆ 桔梗の花は咲いてないけれど、谷性寺など♪ 名古屋から亀岡までは、こないだの坂本と同じく、1時間半くらいなんです~。近い。

そんなこんなな忙中閑に、昨夜はついにミッドランドシネマで「シン・エヴァンゲリオン劇場版:Ⅱ」観てきた!!

シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開1週間で興行収入33億を記録 ...

まだ公開して日も浅いので、ネタバレ感想はいたしませんが、一言だげ――

うわあああっ、私のアスカのお目々がどえらいことにいぃぃぃぃ!!!(悲憤)

つか、ちょ、我が愛するアスカはいったいどうなったってのよ??? 涙涙でありますが、しかし、相変わらず我らが姫は凛として猛々しく、男前で、そして一番苦しく痛い思いをして・・・。(号泣)

それと・・・あの、今回の映画、後半はなんですか、ギャグなんですかねゲンドウさん?? ゲンドウさんの動機のスケール、想定以上に、ちっさvvvv

鳥羽から無事帰還 & 光秀折檻はやっぱ怪しい? & 苦悩すると色っぽくなる十兵衛

鳥羽出張から無事に帰還しました~♪ 13日の午前中は、凄い大雨で、9:37発のJRみえの鳥羽行き乗車を予定してたのに、急遽列車が伊勢市止まりになってしまいvvv でも、伊勢市近鉄に振り替え輸送してくれて、問題なく11:30には鳥羽駅に到着しました。

早速腹ごしらえで、いつもの駅ビルの喫茶店で軽食。私は食欲が無かったので、お気に入りのフルーツパフェのみ。ビジネス・パートナーは元気にカキフライ定食を食べてました(笑)。

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鳥羽に来ると必ず私が食べるフルーツパフェ、今回も健在! 相変わらず重量たっぷり、みごとな盛りパフェです。

さて、そうしてから13:00~15:00まで、みなと町文学館でひたすら資料のデジタル撮影に勤しみました。貴重な聞き取り帳やスケッチブックの撮影で、ちょっと興奮しちゃったな♪

順調にこの日のノルマは過ぎたので、お宿にチェックイン。今回の宿は「海月(かいげつ)」という、駅と文学館の中程に位置する便利なお宿。朝食のみの一泊で予約したので、夕飯は外で食べることに。まずは、駅前の小店が立ち並んでいるところの一軒に入ります。

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アワビだよ!! 肝も一緒に!! ビールと一緒に食べる焼きアワビは最高だね♪

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続いては、大ぶりの牡蠣!! 答志島産だよ!! ぷっくりジューシーな焼き牡蠣、これまた最高♪

貝を堪能した後は、河岸を替えまして、これまた常連のイタリアン・レストランへ。

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先回来た時注文して、大のお気に入りになった、リンゴとチーズのピザ!! それに白ワイン!!

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デザートは、アイスクリームとシャーベット。それにカフェ・ラテ/// いやあ、お洒落なシメでございまする~///

そして、一夜明けました14日は、昨日の雨はどこへやら、快晴となりました。お宿の朝ご飯はこちら。↓

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ザ・日本の朝ご飯☆ ってな感じですね~♪ バランスの良い、和食献立。ご飯は御櫃にたっぷりです。

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伊勢エビの赤だしのお味噌汁もついてきた!! 朝はやっぱり赤だしが美味しいねえ。二日酔いにもバッチリさ(笑)。

しっかり腹ごしらえしてから、10:00~15:00にかけて再び文学館で資料のデジタル撮影。滞りなく終了して、ホッと一息。これで、夏まで鳥羽出張はひとまず小休止。夏までに、撮影したデジタル資料の解読に勤しむことになります。

荷物を取りまとめて文学館を退去し、打ち上げで、再び駅前の小店に向かいまして、昼間から日本酒を(笑)。

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どんだけ貝を食うんだよ!!(笑) って感じっすね~。サザエ、大好き/// 日本酒、最高に五臓六腑に染み渡る///

ってなことで、出張も無事に終了しましたので、またまた「麒麟がくる」萌えトークいきまっしょい。萌えトークっつか、明智光秀考察というか、なんですが。

先日紹介した、『明智光秀斉藤利三』を読了したんだけど、うーん、ちょっとこの本の内容には納得できないかもなあ。四国問題を本能寺の変の要因に置くのはわかるとしても、信長による折檻シーンの有り無しを、フロイス「日本史」と「稲葉家譜」、それに「政春古兵談」の記述で確定とするのは、どうかなあ? 

密室で行われたとフロイスが言うところの、信長による光秀折檻が、もし本当だったとして、私はやっぱり「信長公記」がそれを記してないのはおかしいと思うんだよね。。。フロイスでさえ知り得た情報を、太田牛一が知らないはずはないだろうし、それだったら「信長公記」に記載されると思うんだけど。。。私の素人考えなのかなあ?

それに、「稲葉家譜」における光秀折檻の記述って、そんなに信頼できるものなのか? 場所も年月も記載なく、しかも史料の信頼性を高めているとされる堀秀政の書状では光秀と利三についての沙汰の記述がないんでしょ? うーん。

それと、新資料として紹介されてる「政春古兵談」ね、これって結局、伝聞でしょ? なんか怪しいなあ?vv

それと、例の「当代記」における「この内蔵介(※斉藤利三)は信長勘当の者なりしを、近年明知隠して抱え置く」という記述を『明智光秀斉藤利三』は引用しているわけだが、そもそも信長が光秀を折檻してまで勘当した利三を、それでも光秀が「隠し抱え置く」なんてことは可能だったんですかね?? 四国問題の折衝には、明智と長宗我部の間を斉藤利三が繋いでていたことくらい、信長は承知していたであろうに。だいたい、この「当代記」は明智の年齢を67歳に比定する史料なんですが、私はやっぱり55歳か57歳とみたほうがいいんでないかと考える者であります。

うーむ、わからないことだらけだ。とりあえず、「当代記」を一度確認しておく必要がある。アーカイヴを検索したら、おお、「当代記」もちゃんとあった♪ 早速借りてこようっと。

それでも、先日、比叡山坂本に行って現地を体感してきた身としては、本能寺の変の動機の一つに、この地を追われて遠方へ国替えになることへの恐怖が、明智の心にあったかもしれないという想いは強くなったかも。実際に国替えの沙汰は信長から出ていなかったとはいえ、そうなる危惧を感じざるを得なかった明智が、どれほどこの坂本の街を離れがたく思ったかは、あの優美で明るく情緒のある比叡山坂本の風光を体感するとよくわかる。本当に美しい街だったもの/// 今でさえそうなんだから、国の中心「天下」だったころの時代には、もっとその優美な風光が愛でられていたに違いない。

明智の悲劇は、信長の寵愛を信じきれなくなった心境にあるのかもしれないね。。。信長に愛されていることを信じきれていれば・・・。だって、いろいろ怪しい(笑)「当代記」でさえ、甲州攻めの際に信長は明智を労わって声をかけたと書いてるじゃないの。それでも、信長の自分への愛を信頼しきれなかったのか。。。まあ、それも無理はないと思わせるような信長の性格だったかもしれないが。。。

明智光秀を知るには、たぶん、織田信長という男についてもっと知らないといけないんだなと、この頃考えるようになりましたvv 素人チャンですvv

まあ、史実はさておき、「麒麟がくる」の信長と十兵衛は、ちょうどその反対。信長がもっと十兵衛の愛を信じてさえいれば、と思わせるところがミソですわな///

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しっかし、この苦悩して手を顔に当てる十兵衛、マジ色っぽい/// 

可哀想なんだけど、「いいぞ、もっと苦悩して~~!」とか思っちゃう(笑)。信長への愛を彼も自覚していたが故の、この仕草だと私は確信する!!(きっぱり) 父性も感じさせる、なんとも言えない演技ですね、長谷川十兵衛、秀逸!

明智本続々 & 「明智様を守れと言われてます」

昨日は夜19:00~22:30まで、ZOOMで研究会でした。私の発表だったので、ちょっぴり緊張しました~。なにげに久しぶりの発表担当だった(笑)。でも、面白かったし、勉強になった。ありがとうございます♪ 次回の宿題として、今公開中の「シン・エヴァンゲリオン」観なくちゃならなくなったvv

そして、今日は午前中にラボへ出勤。途上、つんつんと肩を叩かれ、なんやと思ったら、これまた超久しぶりに仲良しの同僚(♂)二人組だった(笑)。おしゃべりしながらラボに到着。雨が昼頃に雷雨になって凄かった。名古屋は明日の朝まで雨です。明日から鳥羽へ出張なんだが、どうにか出かける頃には晴れてほしい。

さて、それでは週明けまでココに来れませんので、「麒麟がくる」の萌えトーク、いきまっしょい☆

昨日の研究会開始前の早めの夕飯の写真を、まずは見てください。

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茄子とお肉のミートソースパスタ、それと高柳光寿『明智光秀』。

この高柳版『明智光秀』は、1960年代の明智光秀研究の有名な本。私はなぜか今までスルーしちゃってたんだけども、今回、改めて読んでみた。そんなに難しい本じゃないから、一日で読めちゃうよ。昔の本なので、さすがに研究としてはちょいと古くなってるが、私は先日も言ったように、各時代において光秀がどのように受容されていたのかに興味があるので、この本も1960年代における明智光秀解釈の一つとして面白く読めた。

研究としては古くなっているとはいえ、この本の主張で存外に今でも頷けそうなのは、2点あると思いましたね。

1つ目は、やっぱり斎藤利三をめぐって信長が光秀を折檻したというエピソードは創作だろうという主張。高柳氏は、「そんなに信長が怒っていたのなら、斎藤利三がそのまま光秀の配下でいられたはずがない」と言っていて、それはそのとおりだと思うな。斎藤利三はずっと光秀の家臣であり続けてるんだから、多少の叱責はあったかもしれないが、激しく折檻するほどの怒りではなかったのではないか。

2つ目は、明智光秀は後世ではインテリの典型みたいな描かれ方をされるけれど、なかなかどうして戦国武将として剛の者であったという主張。たしかに、外交官として朝廷や幕府との繋ぎを巧妙にさばいている光秀ですが、信長の主要な戦にはほとんど参加して、それも先陣を切ったり、采配をすべて任されたりしてる。武事において、かなりのパワーを持っていた強い武将だったという見解は、存外に目から鱗だった。

先日ココでも紹介した、矢田挿雲「太閤記」みたいな近世~近代の小説では、明智はほんと弱々しいインテリか陰湿な策謀家タイプに設定されやすく、それが現代の我々のイメージの刷り込みになっちゃってる感があるけれど、史実を素直にみていけば、たしかに明智は強い。織田家臣団の中でも、有数の猛者な武将なんだよ。

麒麟がくる』織田信長と明智光秀に修復不能な亀裂が 長谷川博己が ...

はあ~、ほんまに渋みのある歴戦の勇者にして遅咲きの桔梗の花///

なるほどね~、と、もはや古典となった研究本を読了して、いろいろ思うところがありました。んで、本日はラボに、最先端の明智研究本や小説アンソロジーが届いたよ♪

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うひょひょ~~い///(歓喜

これで当分、読みものには事欠かない。早速、中央の小説アンソロジーを読了(笑)。でも、うーん、この本に収録された小説は、どれも信長が異常な残酷さを持つ人間に描かれてばっかで、その残酷な信長にイジメられたり脅されたりする光秀ばっかでさあ、なんかワンパターンだなあ。違うの! 信長が残酷で、光秀が常識人というパターンじゃないの! それはもう飽き飽きしたパターンなの!

やっぱ「麒麟~」が設定した、どこまでも十兵衛LOVEな信長様は稀有のパターンなんや///

やっぱ斬新だったよ、「麒麟がくる」は。だから私もハマったわけで。

んで、左側の本は、明智の直筆の書簡の翻刻と論考がセットになった、オベンキョ本。明智光秀文書研究会なんて研究会があるんだねえ、へえ。分厚いけど、面白いよ♪

そして、右の本は、私が最近抱きつつある「本能寺の変は、斎藤利三がキーパーソンなんじゃないのか?」という考えを検証するために買った。いわゆる四国問題(長宗我部問題)と本能寺の変を結びつける論の一派なんだけども、私は例の「明智殿の傍にいたいでござる!」と言って居座っちゃった斎藤利三と光秀の関係に関心がある。信長を討ちたかったのは、本当は光秀本人というよりも、斎藤利三の方じゃなかったんかって、ね。

そんなこんなで、オベンキョと萌えが一緒くたになって、たいそう楽しい日々です。

ところで、「麒麟がくる」第弐集の円盤を見返していて、改めて「アレ?」って引っかかったところがありまして。例の、十兵衛が山伏コスプレして藤吉郎と京に潜入する回。先に潜入していた藤吉郎の許へ、十兵衛が余計に目立つ山伏コスで合流した際の藤吉郎のセリフ――「上様から、明智様をお守りするよう、言われておりますんで」。

え・・・?

明智様をお守りするように言われてる??

「十兵衛に協力して京の様子を探ってまいれ」じゃなくて、「後から十兵衛が行くから、そうしたらそちは十兵衛を守れ」って、そう信長様に命令されたの!?

どゆこと!?(困惑)

さっきも言ったように、明智はかなり強いんだよ。剣術の腕からいったら、たぶん藤吉郎より遥かに上だよ? それなのに、「十兵衛を守れ」って何さ? 何から守るのさ?

はっ! そうかっ、「悪い虫がつかないように、十兵衛を守れ」ってことかあああ!!

それならわかる! 100%わかる!! 「あやつはちょっと目を離すと、すぐ男を引き寄せおる。それだからして、猿よ、おぬしがしっかり十兵衛を守り、監視せよ」という命令だったのかあ!(笑)

東庵先生の家に入る時も、ぴったり十兵衛にくっついて入ってきたそうにしてた藤吉郎、鼻先で十兵衛にパシンと戸を閉められましたが(笑)、あの時も、「この家の中で、まさか明智様はどこぞの男と密会!? やはり上様の推測どおり!? 現場を押さえてチクっちゃお♪」とか考えたのかもしれんてvvv 

麒麟がくる | エンタメOVO(オーヴォ)

う~~ん、やっぱこの二人の絡み(秀吉➡十兵衛)を、もっと見たかったなあ~///

けっこういいバディ物になったのではなかろうか? 騙し騙されの、裏切りのバディ物だけどさ(笑)。

坂本の戦利品 & 「惟任退治記」と十兵衛へのプロポーズ各種

今日は晴天なれども風強し。週末はちょっと雨模様なのかな、鳥羽出張がじゃっかん心配です。昨日の弾丸ツアーは楽しかったな、と、余韻に浸りながら、本日はラボでお仕事してました。

それでは、昨日の戦利品をご紹介しま~~す☆

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寺院のパンフレット数々、桔梗紋のリングノート、西教寺と滋賀院門跡の御朱印、それに明智光秀顕彰会発行の会誌「桔梗」の合冊本。「桔梗」の合冊本は西教寺の受付で売ってました。こういう会誌冊子の類は、見つけた時に入手しておかないと、後で後悔するからね。私は歴史学の人間ではなく文学の人間なので、史実も関心はあれど、それ以上に、地元の人々が明智光秀についてどういう感情を抱いているのかについての証言に興味がある。光秀像のイメージ変遷は実に興味深い。

ところで、『続群書類従』弐拾輯下に収録された「惟任退治記」を読んでも、やっぱり明智の謀叛の理由はわからんのよね。ただ唐突に「併非当座之存念。年来逆意。(今ここで思いついたことではなく、以前より謀叛の心があった)」って書いてるだけで。で、話はすぐに愛宕百韻に飛ぶんだよ。やっぱり当時でも明智の謀叛の真意はわからなかったんじゃないの?

ほいでもって、「惟任退治記」では、光秀が討たれる場面の記述はなく、次のような記述で光秀の死を語っています。↓

其夜前後追懸惟任者多之。霜雨頻。敵味方不知其差別。山科醍醐相坂。又吉田白河山中。其辺於方方。打取来首不知数。秀吉其翌日至三井寺着陣。一日成逗留。及坂本行。又従諸口打捕来首。悉点検之處。其中有惟任首。秀吉日比本望。

(その夜前後から光秀を追う者多く、折から霜雨も激しかったため、敵味方の区別もつかないほどだった。山科醍醐、または吉田白河山中、そのあたり方々から、打ち取られた首が数え切れないほど集まった。秀吉は翌日に三井寺に陣を敷いた。一日逗留し、また坂本へ行く。方々から打ち取られた首が届けられた。その中に、光秀の首があった。秀吉はこれを見て本望と悦んだ。)

不審ではあるな。明智の軍勢は各方面に散り散りになって逃げていて、方々各所から数え切れない首が届けられ、その中から一つを選びだしたというわけなんだが、点検したのって、誰? ってか、実際問題、雨に打たれて崩れた大量の首を悉く点検するなんてこと、できたのかなあ?

不審と言えば、いくら秀吉軍や落ち武者狩の手が迫っていたとはいえ、あの明智家臣団が主君の首をそのへんの溝に放り出して逃げたという巷説(?)は、どうなんだろう? にわかには信じられない。苦肉の説といった感じもしなくはないよね。

いやあ、ほんと面白い、興味深いね、本能寺の変は☆

でもって、私は今手元に「麒麟がくる」第弐集のブルーレイが届いているので、このあいだからのんびり観ているんですが、長谷川十兵衛の男遍歴(笑)は、ほんとただ事ではない!vv これは染谷信長が嫉妬するのも、わからんでもない気がする。

斉藤高政が、やっぱ最初のお相手なのかなあ?vv 高政の十兵衛への想いも切なかったよね~。幼馴染という強力な設定なのに、一言の許に十兵衛にフラレる高政、かわいそう。高政の「俺と一緒に来い! 断れば斬る!」は、信長様の「二人でお茶を~」に比肩する究極のプロポーズでした。十兵衛を斬る気なんて、はなから無いのにね(涙)。

大河ドラマ衣装、目がチカチカ? 担当「考証に基づく」:朝日新聞デジタル

次がやはり足利義輝様か。わざわざ越前から京へ呼びだされて、一緒に能を鑑賞した後、三渕や細川から「今夜、義輝様が十兵衛殿と話をしたいとご所望じゃ」と告げられるあたり、「今夜!?」とか反応しちゃう///(笑) ここらへん、どうなんですかね、巷では?(喜々)

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十兵衛が唯一、プロポーズに応えようとした相手、それが義輝様だったのに。。。
でもって、それから信長様でしょ。続けて、斉藤利三でしょ。義昭でしょ。家康でしょ。ここに細川藤孝松永久秀まで入れたら、もう、

十兵衛、この節操無し!!(折檻)

って感、まあ、あるわな。

比叡山坂本へ弾丸特急の旅☆

本日は昨日の宣言どおり、比叡山坂本へ弾丸特急の日帰り旅に行ってきました! 有言実行!

比叡山と聞くと何やら遠く感じますが、今朝はゆっくり8:00に起床し、たらたらと身支度をして、9:00に自宅を出て電車に乗ったら、あら不思議(?)、10:40にはもう比叡山坂本に到着~♪

どんだけ、ご近所vvv

まあ、名古屋と京都が隣近所な近さですからね。京都駅から湖西線に乗れば20分足らずでもう比叡山坂本なんだねえ。

んで、お天気も少し汗ばむくらいの陽気で、かっこうのお散歩日和。駅からタクシーもバスも使わず、ひたすらてくてく歩くことにしました。まずはまっすぐ明智菩提寺である西教寺へ向かいます。

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駅からまっすぐ北へ上る通りを、てくてく、ひたすら歩むと、鳥居が見えてきました。この目貫通りの両側には、天台宗の里坊が幾つもあって、完全に寺町といった趣。

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光秀が築いた城下町・門前町の面影を残す、とてもしっとりと雅な雰囲気をかもしだしてる、素敵な街並みでした。感動♪ 静かで、気持ちのよい、たたずまい。ところどころに散見する石組みは、このあたりの技能集である穴太(あのう)衆によるもの。この石組みが街に風情を与えているんですね。品のいい街の雰囲気は、長谷川光秀の面影にも似かようよ///

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街並みを抜けて、いよいよ西教寺へ向かう道に入ると、これがまた良い道でした。並木は桜だね。閑静で、それでいて明るく爽やかな道。

駄菓子菓子、歩けど歩けど、遠いっ!!!(疲)

上り路ということもありましょうが、バスやタクシーを使わなかったことを、ちょっぴり後悔。。。雨降りだったら、とっくにくたばってたな、こりゃ。

30分近く歩いたでしょうか、やっと西教寺に到着しました。けっこう汗びっしょり。

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おお~、かなり規模が大きいぞ、これは///

すみません、私、もう少しこじんまりしたお寺を予想してました。なんのなんの、境内はたいへんな広さです。比叡山を焼いた償いに明智光秀が再興したお寺ですが、かなりの格式なんですな。

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うーん、山門から本堂までも、遠いよお~(笑泣)。

まだまだ歩く、てくてく歩く。ちなみに、ここも上り坂になっとります、はいvv

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しかし、たどり着いた先には、疲れを一瞬忘れさせるほど、みごとな本堂ならびに付随の建物がありました! これはすごい! 堂々たる寺社建築です!

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鐘楼もすばらしい! 西教寺の鐘は、光秀が寄進したため梵鐘ならぬ陣鐘なんだそうで。へえ。

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大本坊の説明書をパチリ。

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いやあ、どの角度から見ても、絵になる眺めですね~♪ 屋根の構造が雅やかですね。咲き初めた梅の花と一緒に。

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桔梗紋の旗印と大本坊を一緒にパチリ☆ 本坊の内部も見学できますよん♪ 内部も広いんだ、これが。

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こちらは茅葺屋根も美しい、客殿です。内部には、明智光秀資料館というコーナーが設けられていて、例の、戦死した家臣たちへ弔いに米を寄進した書状が展示されています。「咲庵」という光秀の庵号も読める。咲庵て、可愛い庵号だよね♪ やっぱり「遅咲きの桔梗の花」なんか///

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ちょうど雛祭り展もやっていて、本坊の内部で見学。しかし、古代雛って顔が怖いよなあ(笑)。

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内部を見学し終えたら、境内の明智一族の墓にお詣り。長谷川博己氏もドラマ撮影前に詣でてらしたね。

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光秀作(と、言われている)の漢詩の碑。「人間五十年」を舞った信長と、「五十五年の夢」と謳った光秀――。

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本堂ならびに本坊を見た後は、そのまま大河ドラマ展示をやっている禅明坊光秀館へ入ります。館の門前で、猫が落ちてました(笑)。近づいて撫でてやっても逃げないで甘えてきたよ♪ 人馴れしている猫でした。ぷくぷくしていて、なんだか染谷信長みたいな猫だった。光秀館の前で昼寝してくつろぐ染谷信長猫か(笑)。

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じゃじゃ~~ん! いざいざいざ~♪

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西教寺らしく、十兵衛と煕子の着物が展示されていました。でも、目玉はこちらの展示だよね。↓

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坂本城は湖に浮かぶ水城、そして双子天守の構造だったんだね~。優美なお城だなあ。城下町の雰囲気といい、明智光秀の人柄がしのばれる気がします。

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西教寺を去って、駅へ向かって下る道から、遠く琵琶湖が見晴るかせます。すばらしい眺め! のどかな春の大和風景。

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坂本の街は、本当に美しい! 近江八幡もヴォーリスの建築が残る風靡な街並みで有名だけど、ここ坂本も実に風雅な街並みです。この美しい城下町の基盤を作ったのが、明智だったのか・・・。

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ところで、朝から何も食べずに歩き回ったので、さすがにヤバイと思いまして、鳥居前の「日吉そば」というお店に入り、古代そば700円を食べました。腹ごしらえを済ませて、今度は滋賀院門跡へ。天海僧正ゆかりの門跡寺院ですわよ(笑)。

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うわ、これまたシックなたたずまいの滋賀院門跡。このシンメトリーな造形美がモダンです。

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この入り口のスロープも、いい感じ♪ しかし、ここにも桔梗紋の旗が翻っていると、「やっぱり光秀=天海?」って思っちゃうけど、いいんでしょうか?vv

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うむ、なかなか渋い、武家好みな意匠に見えまするが・・・やっぱり光秀=天海?(笑)。

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内部を見学すると、小堀遠州のお庭が見学できます。さすがに西教寺の方がみごとな意匠建築だったけれど、こちらもなかなか味わいがある。

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滋賀院門跡見学後は、今度は駅の反対側を琵琶湖に向かって延々歩き(疲)、坂本城址に行ってきました。

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坂本城址は現在も発掘中。公園として整備されているのは、城址の南寄りの箇所です。しっかし、これまた駅から遠かった。。。

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明智光秀の像は、なんだか大魔神みたいvvv そして、何やら「光秀の意地」とかいうタイトルの歌碑がありましたがな。うーん。

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公園から琵琶湖の波打ち際まで降りてみました。遠く見晴るかすと、

あ・・・、これは・・・、安土が見えるわ///

やはり坂本城安土城は互いに向かい合って見つめあってる/// 湖を渡れば、本当に近い。朝日の安土と、夕日の坂本か。「麒麟~」じゃないけれど、この城の対面位置などから推しても、信長と光秀は、相思相愛だったんじゃないのかなあ?

本当は明智塚も見たかったんだけど、もう私の体力は限界に来ていたので、今日はこれで帰ることにしました。こんだけ名古屋から近いとわかったので、また次回に来ればいいや。湖西線と新幹線を乗り継いで、名古屋駅には17:00に到着☆

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名古屋駅で駅弁をとビールを買って、帰宅。お風呂に入ってサッパリしてから、夕飯と晩酌。いやあ、良い旅でした。現地に行って、明智が作った城下町の雰囲気を体感できたことがよかった。西教寺が予想以上に素晴らしい建築だったのも、よかった。たしかに、現地に行かないとわからない(感じ取れない)ことって、あるよね。

戦利品や萌えトークは、明日☆ 今日は疲れました、旅ログのみでご勘弁です/// お休みなさい♪